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2004tunisia 10/07
早朝のシャルル・ド・ゴール空港

 21時55分、成田空港の最終便一つ前(最終便は、ノースウェスト航空のハワイ行き、22時00分)のエールフランス航空、パリ、CDG(シャルル・ド・ゴール)空港行き、ボーイング777は、ほぼ定刻にターミナルを離れた。

 ヨーロッパ行き唯一の夜行便(エールフランス曰く、通称、スターウイング)であるこの便は、日本発着のノンストップ便としては最長の、13時間半の飛行時間だ。恐らくは成田とCDGのそれぞれの飛行制限時間に合わせて(もしくは乗客の利便性を考慮して)、わざとゆっくり飛行し時間を稼いでいる。

 こんな便でもきっちり2食、日本時間23時のディナーとフランス時間午前3時の朝食が供される。飲み物は優雅にシャンパンを注文しましょう、だってフランス行きだから。夕食にはみそ汁をお願いしましょう、だって日本人だから。

 午前4時、まだ真っ暗なCDGに到着。少し肌寒い。空港は、まったく稼働している感じが無い。チュニス行きの便に乗り換えるためにターミナル間をバスで移動する必要があるが、5時半にならないと来ない。やっと来たバスに乗って目的のターミナルに着くが、まだ店は1軒も開いていなかった。

 8時30分、やっとバスに乗り飛行機まで移動するが、ここでバスに乗ったまま30分待たされる。搭乗してからもやたらと人数確認を繰り返し、また30分待ち。結局1時間以上遅れての離陸となった。滑走路へのタキシング(地上走行)中に、5月に発生した2Eターミナルの屋根崩落現場前を通る。ほとんどそのままのような感じで、今でも瓦礫の山だ。CDGのターミナルは、かまぼこの内側をくりぬいたような形で、内部にはほとんど柱がない。そのドーム状の構造で力を分散しているのだろうが、見るからに壊れそうで、本当に壊れたのだから設計の問題を疑われても仕方がない気がする。

チュニスの喧騒

 いよいよ離陸。凱旋門やエッフェル塔など、パリの街を見下ろして−−パリの街は格好いいなあ−−アフリカ大陸へ向かう。チュニス・カルタゴ空港までは2時間半だ。機内アナウンスはフランス語と英語のみ。2国間を飛ぶ場合は必ず両方の言語でアナウンスすると思っていたが、アラビア語は無視されているようだ。機内で入国カードを記入する。記入方法はフランス語、英語、アラビア語で説明されているのでたいていの人は問題はないでしょう(occupation(「占領、って何?」)の意味がわからずそこだけ無記入にしておいた。今調べたら「職業」だった)。うつらうつらとしているうちに、現地時間の11時半、アフリカ大陸へ降り立った。入国審査は簡素。妻は職業を聞かれて「house worker」と答え、笑われていた。「専業主婦」の正しい英語表現はどうなんでしょ。

 到着ロビーには、現地の旅行業者バトゥータ・ボヤージュのスタッフが待っていた。今回ホテルの手配は全てここにお任せした。インターネット予約が当たり前になった時代だが、チュニジアでは、都市部を除けばその手の予約が出来るところはわずか。また、アラビア語(フランス語)の国なので、ファックスや電話によるやり取りも心許ない。それで日本語の通じる現地旅行代理店に手配をお願いした。なぜかアメリカドルでホテル代を支払い、7泊分のバウチャー(宿泊券みたいな物)を受け取る。これで宿は確保できた。一安心。ちなみに値段は754ドル。チュニジアで貧乏旅行をしようと思えば1泊数千円で泊まれることを考えると法外な値段だが、各町で最高のホテルを用意してもらっているので仕方がない・・・のだろうか。

 現金をチュニジアディナールへ両替。4〜5件の銀行窓口があり、一番交換比率のよいところを選び、日本円5万とちょっとと、自宅に残っていた100カナダドルのトラベラーズチェックを差し出す。明細書−−帰りに必要になるので捨てないでね−−と、557D(ディナール)を受け取る。うちらはバックパッカーではないので日本に比べると物価が安いこの国では、贅沢三昧、大盤振る舞い、大名旅行をしようと目論んでいるが、はたして足りるだろうか。

 タクシーの客引きをくぐり抜け、次はエイビスのレンタカーへ。笑顔でインターネット予約の確認書を差し出す。が、見事に英語が通じない。逆にこちらが「フランス語の発音が悪い」と講習を受けてしまう。アメリカ企業のオフィスで英語が通じないとは、この先が思いやられる。

 案内係のおじさんが持ってきた車に乗り込む。日産パトロール3.0リッターturbo。あまり車には詳しくないので日本名は知らないが、三菱パジェロのようなごつい四輪駆動車だ。レンタル料はかなりお高いが、砂漠に挑むのだからこれくらい投資しましょう。車高が高く眺めもよろしい。到着ロビーのカフェで、何はともあれペットボトルの水を購入し(ホテルを除けばここが一番高い水だった)、最初の目的地、ドゥッガに向けて出発した。

 街に出ると、すぐさまこの国の凄さを知ることとなった。車線などお構いなしに走り抜けるタクシー、クラクションの洪水。一台分の車間距離を空けていると、すぐさま追い越されてしまう。左折レーン(日本で言うところの右折)を使っての追い越しは当たり前で、対向車が少ないと2車線のはずの道路が3車線になっている。おまけに時々荷馬車も通る。今まで経験した国の中で、煙草と車のマナーは日本が世界一悪いと思っていたが、車に関してはチュニジアの方が上だ。

 また、日本のように数100メートルも前から巨大な看板で道の分岐と行き先を示してくれるような親切な設備は皆無。交差点に申し訳程度の矢印が出ているだけで、今自分が走っている道の名前もわからない。とりあえず、携帯GPSに入力しておいたチュニス郊外の最初のポイントに向かって進み、何とか街を脱出することが出来た。

全ての道はローマに通じる

 道の脇に車を停め、やっと一息つく。まだチュニスの中心からは西に10キロのあたり。チュニジア北部はオリーブ畑の広がる肥沃なところと聞いていたが、日本人の目からすれば緑の大地とは言い難く、基本的に風景は茶色だ。煉瓦造りの家々も土色にかすんでいる。

 GPSの表示から、予定していた道より北側にずれているのは確認できたが、戻るのも嫌なのでそのまま直進。かなり遠回りをしながらドゥッガに向かった。

 お昼もだいぶまわり、そろそろお腹もすいてくる。しかし、ファミレスやドライブインがあるわけない。もちろんコンビニもない。時々バーベキューのような煙が上がり、何かの肉を売っている掘っ建て小屋のような店が出ている。意を決し、外人客が居た店を選び車を停めた。

 車を降りた瞬間から後悔した。食べている外人さんの皿には無数のハエがたかっている。ショーケースに吊されているのはいったい何の肉だろうか(後で知ったが羊らしい)。当然言葉は通じない。食べる仕草をしバーベキューの火を指さすと、分銅のようなおもりを持ってくる。どうやら肉の量を聞いているらしい。結構重たかったのでこれを二つに切る仕草をする。したり顔でうなずいて、持ってきた肉は血の滴るレバーのようなところ。出来れば“しろみ”にして欲しかったが、説明できないのでOKとした。

 肉が焼けている間にトイレを借りる。これから先(特に妻が)苦労することになるチュニジア式トイレの洗礼を、いきなり浴びることとなる。日本のひなびた公園にある公衆便所以上に汚いのはあきらめるとして、洋式便所なのに便座がない、そして紙がない、水が出ない。一応予備知識はあったので、アウトドアショップで売っている高水溶性の特殊なトイレットペーパーは用意してある。泣きが入っている妻になんとか先に用を済ませてもらい、自分が後処理を担当する。

 さて、チュニジア式・水が出ないトイレの後処理はどうすればよいのか。答えはタライに水をためて流す。ここのトイレにもタライと手桶が置かれている。そもそもトイレで紙を使う習慣が無い(らしい)チュニジア人は、うん○をした後もこれでなんとか対処しているらしい。ちなみにもう少し気の利いたトイレでは、ホースが付いている。これだとお尻を洗うことも出来そうだが、瞬間的な流量が無いため便器の中のうん○を流すのに苦労する。

 肉が焼き上がった。ハエのたかったフランスパンに挟んでもらい、お持ち帰り。値段3Dは後から思えば無茶苦茶高い。車に戻りドゥッガに向けて出発するが、当然のごとく妻は食べることを拒否。“郷に従え”主義の自分はお腹を壊してでも食べるつもりであったが強硬に反対されてしまい、結局この日は昼飯抜き、謎の肉サンドイッチは捨てられる運命となった。

 5時近くになりやっとドゥッガに到着。直線では100キロ程度の距離を4時間もかけたことになる。入り口で2人分の入場料と撮影料を払い、駐車場に車を停める。ここがどんなところか、詳細は他のサイトやガイドブックを参照していただくとして、一言で言えば3世紀に作られたチュニジア最大のローマ遺跡だ。駐車場のすぐ目の前には劇場があり、丘のあちらこちらに廃墟となった石の建造物がある。

 早速劇場に足を運ぶ。すり鉢(の半分)状の観客席の上段に座ると、ドゥッガの平原が見渡せる。ローマ帝国が栄えた時代のアフリカは緑豊かな穀倉地帯で、ここドゥッガも最盛期には1万人が暮らしていたという。今はオリーブ畑が点在するのみで、当時の面影を見て取るのは難しい。

 劇場の裏手に抜け、ぶらぶらと歩いていると、一人の男性が近付いてくる。「地球の歩き方」等のガイドブックには、「遺跡などでは自称“公認”ガイドがつきまとい、法外なガイド料を要求するので注意するように」と言った記述がよくある。この人もやはりガイドで、胸のプレートをかざし話しかけてくる。言葉がわからない振りをして一度はやり過ごしたが、またしばらくすると現れた。海外での難局は、ジャパニーズスマイルで乗り切るしか手段を持たない我が夫婦は「後30分で閉園だから、見所を速く案内してあげるよ」という言葉に素直に従ってしまった。まあ仕方がない、チュニジア旅の心得その1「こっちは金持ち、気持ちよくぼったくられよう」を実践だ。

 「はいここが神殿です。あっちがローマ時代の風呂です。はいここに立ってカメラはこの角度・・・」と、はとバスのガイドも真っ青な効率の良さで見所をかけまわる。しかし、ガイドブックを片手に歩いただけでは当然見逃したであろう彫刻の数々や、ローマ時代に書かれた“ドゥッガ”の文字も見ることが出来たのでまあ満足。請求された10Dを素直に払った。これは“法外なガイド料”だったのだろうか。

 石畳には馬車の轍の跡が残っている。この道は東はアルジェリア、西はカルタゴまで続いていたそうだ。カルタゴの先は海を挟んでシチリア島、そしてその先はイタリア本土、ローマへと続く。世界をローマ化していくことで帝国の繁栄を築いたローマ人の執念を感じる。

ル・ケフの夜

 今日の宿を聞かれたのでル・ケフだと告げると、近道を教えてくれた。分岐のところまでバイクで先回りをして指し示してくれる。遺跡に使われていたと思われる四角い大理石が転がる荒れた細い道−−本当に通っていいの?−−を抜けると、しばらくして街道に出た。ル・ケフまでは約1時間、到着する頃にはすでに暗くなっていた。宿の名前はLe Pins。街の詳細な地図が無いので暗い中見つかるか心配だったが、チュニス側からル・ケフの街に入るとすぐのところで目立つ電飾看板が見えた。

 受付に向かうと迎えてくれたのは鳥の声。あちらこちらに鳥かごが置かれ、結構な騒ぎとなっている。宿泊者カードを記入し、案内された部屋は入り口からほど近いところで、室内に居ても鳥の声が響いてくる。どことなくイスラムな雰囲気ではあるが落ち着いた装飾。3つ星ホテルではあるが、バスタブは無くシャワーのみ。このホテルは斜面を利用して建てられており、入り口は上層階にある。自分たちの部屋が何階なのかはよく判らないが、窓の下にはプールが見える。と言っても、もう夜なので状況はよく判らない。

 晩飯を探しに車で街に出る。が、まずは小さな商店で水を補給。炭酸入りかどうか(ヨーロッパでは気付かずにcarbonateな水を買ってしまい、げげ、っとなったことが何度かあるので)を確認していたらスーパーマリオのようなオヤジが「日付はここだよ」と別なところを教えてくれる。楽しいオヤジに免じて3本買った。幾らかよくわからないので小銭を手に乗せて差し出すと、いくつかのコインが入れ替わった、が概ね空港で買った水の半額程度だったように思う。

 晩飯は、ホテルから程近いところにあったピザ屋で済ませた。メニューはフランス語なのでよくわからない。妻も自分も初日の緊張感と高揚感がまだ消えず、昼飯を抜いたにもかかわらずそれほどお腹は空いていない。なるべくシンプルなピザ1枚とジュース2本で約3D。瓶のファンタをストローで飲む。うーーん、合成着色料な味に加えて飲み方も懐かしい昭和テイスト。ピザも悪くない(まずいピザを作るのも難しいが)。食べているうちに気分も落ち着いてきた。しかし、外を見渡すと、小さな町だが喧騒が続いている。これまで体験した白人の国とは違う、人々の圧倒的な存在感のような物に押されて、心地よくない疲労が残る。結構物に動じない、“なるようになる”主義の自分がこれだけ感じているのだから、心配性の妻はもっと疲れただろう。この国に来たことは失敗だっただろうか、そんな気持ちが少しよぎった。


10/07 end


Photo
シャルル・ド・ゴール空港puffin シャルル・ド・ゴール空港
天井までガラス張りの広い空間です。
ドゥッガ 円形劇場puffin ドゥッガ 円形劇場
昔の芝居は詩の朗読+アンサンブルのような物だったそうです。
ドゥッガ 神殿の柱puffin ドゥッガ 神殿の柱
高さ10メートル、継ぎ目無しの一つの石だそうです。
ドゥッガ 神殿遠景puffin ドゥッガ 神殿遠景
こんな物が千数百年もメンテナンス無しで残っているなんて、石の文化は凄い。
ドゥッガ モザイクタイルpuffin ドゥッガ モザイクタイル
手間と人件費を考えると、現代の建築で取り入れるのは不可能でしょう。
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